眠いし遠いし予定通りの行動が苦手なおぐーとしては木曜日朝の練習は天敵のはずなんだけどなんでか来れるし来ると楽しいしどうなんだろうと思う。おぐーです。
人間って心の赴くままには生きられない。外的要因、内的要因で自分の思う通りになんか生きられない。どんな人間でもどんなトップでも絶対に自分の好き勝手には生きられないのはウクライナ事変を見ていると強く感じる。何の落ち度も無いのに日常が崩れていく。世界は残酷で個人なんか翻弄されるだけで人生が終わったりする。自分の人生に意味があったと考えると突然終わる事もある人生に究極的には絶対的な意味はないと思う。でもその人が生きている、生きてきた事に関して相対的な意味はありまくる。その人がいた事で発生したイベント、その人がいた事で人生を左右された人が必ずいる。自分ではわかりようも無いことだけど、様々な人が様々な人と関わり合って人生が変わり世界が変わっていく。そういう意味では意味のない人生など絶対にないのだ。
ウクライナとロシアの紛争があんな状態なので現時点でのボクの気分的には世界平和を標榜するイベントである北京パラリンピックは申し訳ないけれどなんだか見る気が起きない。こんな時にそんなことをやっている場合かという気がしてしまって。特に中国は基本的にはロシアの姿勢を肯定していて都合の悪いことは話を濁して積極的に和平へと介入する兆しも無い。そんな国が開催している平和のイベントというだけで白けてしまうのは僕だけではないはずだ。だから選手には悪いけど、ごめん。ちょっと見れないかも。
ただそれと野球は別というと、なんだ、ウクライナの件で心を痛めているくせに野球なんて趣味的な楽しみはやるんだなとなりそうだが、ボクなりに何か出来るならしてあげたいものの何か出来るわけでも無く(寄付や物価の高騰は甘んじて受け入れようと思います)いつも通りの生活をするしかないと割り切るわけです。TVで子供や女性が涙を流し世界がロシアを止めてくれと訴え、市民がミサイル爆撃で死傷していくニュースを見て、僕たちは食事を取り仕事をして趣味をする。矛盾を感じないわけでも無いが沖縄基地の問題。香港の問題、結局僕たちは自分の遠くで起こっている問題に本格的には参戦出来ないし、近くで起こっている問題にさえ解決をみれない事が多い。残酷で身勝手な生き物なのが本質なんだろうね。
そんな残酷なボクたちの今年の木曜朝練が始まった。
色々書きたい事はあるけど眠いし時間が無いからシンプルに。
人数がある程度いる練習は、参加する人が下手くそでも上手くてもそれなりに機能する。やはりせっかく練習するなら6人はいた方が練習しがいがあると思う。
そして最近薄々感じてはいたけれど俺太ってね?動くと明らかに息が切れてオーバーヒートしやすくなっている。これは非常にまずい。運動が楽しめない。オグレラユニフォームを着る気がしなかったのでFM09ユニフォームで参加した。大きめに作ったそれが丁度良かったのには恐れ入った。割と体重のわりに動ける認識があったのだが自信喪失気味。今日の練習では明らかに股下を抜かれる事が多くてビビった。動きが結構鈍重になっている感じ。このままじゃまずいと一応認識しました。少し痩せるかこの状態でも動けるように体を慣らします。
そして原点回帰がテーマの今年、少し常識に囚われないで野球をやってみようと思います。守備時のステップやスナップスロー、腕をたたんだバッティングなど知れば知るほど経験者とおぐーの差はある。それが出来るように出来るようにと練習してきたけれどまぁ出来ない。でも出来ない事がそんなにダメな事なのだろうか?最近また始めたゴルフでも思う。グリーン直近のフェアウェイからはピッチングで打つのが本当に最適解なのか。アプローチで力加減が出来ない状態でも?否、それならパターで寄せるという選択肢を恥ずかしがらずに選択するのも一つの方法だと自信をもって選択すべきだ。上手くなる一択ならピッチングを使わなくてはならないが、その考え方はあまりにストイックで融通が利かない。何よりスポーツを楽しむという本質を忘れていないだろうか?
ボクが好きなのはうまく出来ようが出来まいが全力でトライして楽しめるスポーツである。野球においては全力で打ち、全力で捕球し、全力で走るという疾走状態が楽しさを倍加させる。へばっても息が切れても全力でトライするから楽しいのだ。だから無様なスイングでも本当は当たって飛べば良いと思うんだ。上手くはなれないけど。心の赴くままにプレイしたならその結果にはあまり心は揺るがない。だからおぐーゾーンのボールをぶっ叩く。凄く楽しい。ファールが多いがフェアグラウンドに落ちる事だってけっこうある。そういうプレーが出来ると凄く「生きてるっ」って感じる。
食べ放題が好きなのは全力プレーだからだ。食事をスポーツと勘違いしている気がするが、それもきっと「ああ、俺、こんなに生きてるっ」て感じる儀式のようなものなのかもしれない。
野球、下手かも知れないけど全力でやれば何かを生み出せるはずだ。なにより楽しい。だからボクは全力でやります。心が渇望するから。
だからウクライナの人が自分達の国が自分達の国であり続けるように、自分が自分であり続けるように渇望する気持ちがわかります。なんでそんな当たり前の感情を満足させるために血を流さないといけないのかわからないけど。こうしている間にもそういう矜持のために血を流さざるを得ない人たちがいるかと思うと悲しくてなりません。こんな状態でパラリンピックを開くとか何の冗談なんだろうと。
でも野球はやります。自分勝手ですね。俺。
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