11過ぎに帰宅ですよ。最近本当に忙しくてヤバい。遂に野球の練習にすら行けなくなった。たまたまかと思ったけどこんな感じが一ヶ月ぐらい続いてる。忙しいのは暇より良いけどちょっと続きすぎ、、、かなりお疲れモードです。おぐーです。
へとへと。
野球の練習でへとへとになりたかったが。
最近思うんですが人って何のために働いているんでしょうかね。
自己実現とかやりがいとか生き甲斐とか社会貢献とか色々修飾されますけど、結局生きていくための食いぶちでしょ?
だったらですよ?
不労所得、例えば株や不動産収益など、働かなくても入ってくるお金があれば働かなくても良いことになりませんかね?
年金生活者は年金が不労所得で多くの人は貯金を切り崩して、上級は上記の不労所得で暮らしていく。
それを誰も怠け者とは言わない。そういうものだから。
なら早期リタイヤ、fire生活者も同じことで生活していけるだけの収支を仕事以外で実現しているなら働かなくても良いことになる。
食っていくことが出来るのであれば働く必要はない、となる。
では自分自身がなんで働いているのかと考えると、もちろん働かなくてはお金がないので生きていけないから食いぶちのためなのだが、こんなに働く必要もない気がする。なんでこんなに働いているのだろうか。
働かなくてもお金が入ってくる方法を少し考えて、もっと緩やかに働きたい気もするのだが、ここまで働いてこそのボクの社会的価値と言う気もする。
仕事柄、数多くのクライアントさんの所にお伺いして作業したり、電話や遠隔で指示やアドバイスして問題や要求を解決するのがボクのお仕事である。
幸いにして何故かある程度の問題解決能力がボクの中にあるみたいで、中々お役に立てているかなという自負はちょっとある。割りと色々なところで一家に1台おぐーが欲しいと言われるが、それはあくまでドラえもんとしての価値としての話で、人間として一人欲しがられるわけではないところが推して知るべしなのであるw
一日として同じ仕事はなく、毎日が毎回新規の案件なのでルーティンワークではないところがボクの性に合っているのだろう。考えたり、工夫したり色々自分で改善していくのが好きなのだ。人に言われて何かをしたりするのは苦手、毎日、毎週のルーティンワークも苦手。そういうのに安心感を感じる人も多いだろうがボクはつまらないと感じてしまう。
不労所得が食いぶちとなり得るのであれば、仕事する必要がないことになるが、そうするとボクの場合、考えたり工夫したりする動機が無くなる。自分自身だけのその手の動機なんてたいした量がないからである。
そう考えるとボクは他者の「困った」を美味しく食って生きているわけで、結局自分自身が楽しんで仕事をし、他者に喜んでもらっている形になっている。
死語的なのであまり使いたくはないのだがなんてwin-winの関係なんだろうと思う。自分は食いぶちだけでない知的欲求のために他者を必要とし、他者はそんなボクを必要としてくれているわけである。
元来面倒くさがり屋のボクは欲求はあっても機会がなければおそらく何も行動しない。そうするとボクの事が社会から見えなくなるからボクの価値は無くなり、他者からも必要とされなくなる。lose-loseのくすぶり関係となる。
つまり不労所得で労働を穏やかにしようとしてもそんなわけには行かないのである。
これは非常に困った結論で、もうこの忙しさの中で必死にもがくしかないのだ。自分の興味のために、食いぶちのために。
死ぬまで働くしかないのだ。この世は本当に残酷に出来ていますね。
だけど本当に社会的意義のある、価値のある仕事には単価の高い給金が発生するのでボクがしている仕事にそこまで社会的意義があるかと言われれば恐らくは、無いw
局所的には間違いなく意義のある仕事をしているとは思うけど。
ボクとは違い社会的意義のあるレアな仕事をしている人は単価が高くなり、社会的意義と食いぶちを短期間で達成し、余暇が生まれる。
つまり忙しく働くこと自体には擬似的な自己満足位しか価値はないのかもしれない。
仕事で、不労所得で。お金を稼ぐことに関して両者に違いはない。だから参加したい野球の練習にも参加できなくなるくらい働いたとしてそれに何の意義があるのかって思っちゃうわけですよ。
ただボクがやっている仕事自体は天職と思えるくらい好きなので、こんなへとへとになったりしない限りその事に疑問すら抱かないのである。
忙しく働いているから意義があるとか、たいして働いてもないのにお金は普通にもらってたりと、労働対価として考えたとき、結構矛盾があるように見える働くこととお金を貰うことの不思議な関係。
結局は「お金じゃなくて、人生の割と結構な時間の過ごし方として考えた時の仕事のありかた」が大切なんだろうなと思った。
大変は大変で「なんでこんな働かされてるんだろうか」(※働かされているのではなくボクの場合は勝手に働いているだけ)と思うこともあるけど、また何度でも頑張れちゃうのでこれで良いのかなと思う。
ボクが今の仕事を始めたのも究極は当時の時間の使い方に「ボクはこんなことをするために生まれてきたのだろうか?」という疑問が沸いてしまったからだし。自分でそう思っちゃったらもう行動するしかないですしね。そこでその疑問に見て見ぬふりをしていたらおそらく色々終わってたと思うし、当時の自分に「大変だったけどお前が選んだ道で正しかったよ!良く決断して頑張ったね」と言ってあげたい。
そう思える今があることに凄く感謝してるし、そのためならやっぱいくら忙しくても全然平気ですね。うん。
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